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1592年 、日本の絶対的支配者となった豊臣秀吉の朝鮮出兵のため、志賀親次は大友義統に従い朝鮮国に渡海
することとなった。
最初の遠征軍、小西行長、加藤清正等はわずか3週間で朝鮮半島の38度線まで行き着いた。
御旗と鎧兜に十字架を掲げ、顔に顔料を塗り付け、野蛮な殺戮を繰り広げる日本の武士団に、朝鮮国の人々は驚き
奥地へと逃げた。
朝鮮半島は焦土と化し、朝鮮国は民衆の死体で溢れていった。
志賀親次は、無抵抗な老人や女、子供の死体の中を行軍しながら、「何故、この様な残酷なことを、デウスはお許し
になるのか」と自問した。
親次は、途中で休息した村で、追放された女中タエに良く似た少女スンシンに出会う。
貧しい家族と暮らすスンシンに、親次は幾度か食べ物を与えた。
そのことが大友義統の耳に届き、義統は家来にその村の焼き打ちを命じた。
後日その事実を知らされ親次は、人を恨むことを禁じたデウスの教えに苦しんだ。
翌年正月、朝鮮北部の鳳山城を守っていた大友軍は、平壌に明軍二十万が押し寄せたため、前線の小西行長より
援軍の要請を受ける。
しかし大友軍を率いる義統は救援の判断が下せず、同じく九州の黒田陣地に相談に赴く。
大将が不在となった大友軍は混乱し、元々は農奴で強制徴兵の大友兵士等は、諸将の制止も聞かず、義統の後を
追い、雪崩の如く黒田陣営に逃げ込んで行った。
ひとり鳳山城に残っていた志賀親次の元に、平壌から命からがら退却してきた小西行長等が到着し、大友軍の撤退
に激怒する。
小西行長は大友軍の敵前逃亡の詳細を豊臣秀吉に報告し、6月には大友家に改易の処分が下された。
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